俺の阪神タイガース物語

子供も頃からの阪神の記憶、名場面との出会いをつづります。

掛布 スタントン ラインバック三連発 1979年

 1979年、私は中学校3年生。軟式野球部で捕手をしていた。打順は初め4番だったが6番になった。春の大会も夏の大会も区内で敗戦し県大会はおろか市内大会にも進むことが出来なかった。春は投手のOが延長の1死満塁で、なぜかセカンドのカバーに入った中堅のTに牽制暴投でサヨナラ負け。私は「投げるな」と叫んだが、聞こえなかったようだ。夏はKが投手となり、練習試合では快速球をアウトローに決めて完封勝ちを続けたが、その日投げる球がヘロヘロで、マウンドにいって「どうしたん?」とKに聞くと「肩が痛い」と言う。終わったと思った。


 敗退が決まり、野球部を引退した夏休み投手のKとクラスメイトのMそれにMのお父さんと島に行って1泊した。その夜TVのプロ野球ニュースで見たのが、掛布、スタントン、ラインバックの3連続ホームランだった。ネットで調べると8月10日、西京極球場での大洋戦1回裏のことらしい。1974年広島戦で一枝、藤田、田淵、1976年中村、掛布、ラインバック、田淵と2回3者連続以上があったみたいだが、私が阪神の3者連続ホームランを映像で見たのは今回が初めてだった。この年は自分の野球に精一杯で、阪神に新外国人のスタントンが入ったことすら知らなかった。さすがに空白の1日と、それに伴う巨人小林の阪神への移籍は知っていたが、阪神が調子がいいのか悪いのか全く知らなかった。監督はブレイザーで、最終順位は優勝の広島から8ゲーム差の4位。これから数年の阪神は、3位~5位の間で優勝候補になることなく1985年を迎える。春の大会で牽制球暴投したOと「掛布は40本ホームランを打つか」賭けた当然勝ったが、「50本打つか」で負けてチャラだった。田淵の抜けた打線はそれなりに打っていて、掛布打率327本塁打48.スタントン打率225本塁打23、ラインバック打率309本塁打27、若菜も打率303本塁打9、チーム打率268.3でリーグ1位だったが、チーム防御率は4.15で5位小林以外全滅だった。


 たしかこの年か、翌年だったと思うがプロ野球にユースで、番組のエンディングで司会の佐々木信也が「今日2軍で阪急の松永選手が4多数4安打の活躍でした」と言った。松永さんは中学校野球部の先輩だ。ちょうど入れ替わりで実際に一緒の期間在籍したわけではない。しかし前年小倉工業を中退して阪急に入ったこと、そのきっかけは小倉球場でセンター最深部からノーバウンドで捕手へバックホームしたこと、それを相手の投手を見に来ていた阪急のスカウトが見ていたこと等、中学の野球部で噂になっていた。担任で体育のH先生によると、松永さんはバレー、バスケ、水泳、陸上短距離、長距離でも№1でその実力は中学レベルではなかったそうである。ちなみにこのH先生の「もっと太ももを挙げて走れ、お前は背が高くて足の長さもあるから、早く走れるはず」の7アドバイスで、野球部内の鈍足から。野球部では少し早いレベル、一般ではやや早いレベル見なり体育祭のクラス対抗リレーのクラス代表になった。野球部の監督が言う「松永はあそこまで飛ばした」という場所は、その年練習でKが飛ばした最高飛距離の1.5倍は場所で。その時は全く信じれなかったが、のちの松永さんの活躍で「中学生でモアレくらい飛ばす人しか、プロ野球で活躍することはできないんだ」と納得した。
 野球部を引退した私は、その年夏の甲子園でベスト8に進んだT高校(OBに高倉健、仰木彬)に入学するべく受験勉強のためKと一緒に、K工業大学に通っていた親戚のお兄さんに家庭教師をしてもらった。そのお兄さんか煙草をもらい始めて吸った。T高校は学区内1の進学校で、私の成績では無理だったが、野球をやめて勉強すれば入れると思っていた。そしてT高校に入って投手になり(不思議と甲子園出場には興味なかった)、大学は慶應か早稲田で野球をする所まで夢を描いていた。


 その年阪神の掛布が48本塁打で本塁打王、小林が22勝で最多勝を取った。本塁打王と最多勝投手がいたら、優勝だろと思った。ドラフトでは野手で早稲田の岡田を獲得した。今必要なのは投手だろと思つた。


1979年8月10日対大洋戦スタメン


1番ショート  真弓
2番セカンド  榊原
3番サード   掛布
4番センター  スタントン
5番レフト   ラインバック
6番ライト   竹之内
7番ファースト 佐野
8番キャッチャー若菜
9番ピッチャー 小林


表彰
本塁打王 掛布 48本 初
最多勝  小林 22勝 初
沢村賞  小林    2年ぶり2回目


ベストナイン
投手  小林     2年ぶり2回目
3塁手 掛布     4年連続4回目
外野手 ラインバック 初


ゴールデングラブ
捕手  若菜 初
三塁手 掛布 2年連続2回目

遂に最下位….田淵放出  1978年

 中学校2年になった私は、一塁の控えであったが公式戦のベンチには入れてもらえなかった。(練習試合には代打で出してもらったが、ヒットは打てなかった。)Kは3塁の控えとしてベンチ入りしたが、試合には出場できなかった。その夏3年生は、去年と同じく市内大会準決勝で惜敗した。4番キャッチャーのK先輩は、2打席連続のドデカいホームランをかっ飛ばしたが、1点届かず負けた。試合の後そのK先輩を目当てに、数名の高校のスカウトが来ていた。K先輩はY大付属に進んだ。


 新チームになりなんと僕は、4番で一塁手。Kが3番で3塁、Oはまだレギュラーではなかった。(3年になり私が捕手になり、Oが一塁のレギュラーになる。)当時私は、すでに身長180cmを超えていたので、体格だけで選ばれた4番だった。しかし、2年生の夏、三年生が引退した後監督は、僕たちの代で九州大会を狙うと鼻息が荒かった。確かに三塁のKはもとより、遊撃で1番のB、ピッチャーで5番のOは小学校から有名選手で、BやOは隣の小学校の主力選手で、小学校の時から顔見知りだった。


 その年の阪神は最下位だった。開幕からいいところなく、最下位街道まっしぐら。監督は吉田監督から後藤監督に代わっていた。田淵は打率288、本塁打38.掛布は打率318、本塁打32、3番4番は良い成績だったが、チーム打率はリーグ5位の254。チーム防御率は最下位で、セリーグ2位の防御率3.10の江本は11勝13敗11セーブ、他の投手は防御率10傑圏外あった。


 阪神は江夏放出以来投手難で、1976年以降10勝投手は1976年江本15勝9敗、古沢10勝8敗1S 1977年江本11勝14敗1S そして1978年は上記の江本である。確かに江夏とトレードで獲得した江本は、当時のエースかもしれない。しかし阪神のエースといえば小山、村山、バッキ―、江夏、古くは若林と最多勝や、最優秀防御率、奪三振等のタイトルをとる、リーグを代表するエースだった。エースと呼ばれる投手が負け越しているのは、まさに投手難のチームを表していると思う。これはある意味1990年代の、暗黒時代まで延々と続く。野球はやはり投手である。


 この年優勝したヤクルトについては、当時は日本シリーズしか見ていないが、大杉のあのファールに抗議する上田監督を見ていると、3年間憎らしいほど強かった阪急帝国の終焉と新生ヤクルトの溌剌とした感じが対照的だった。その後に呼んだ、作者名は忘れたが、この時の広岡監督を題材とした「監督」という小説は、めちゃめちゃ面白かった。実際とは違うのだろうが、当時のヤクルトの強さがわかったような気がした。


 このオフ阪神は何を考えたのか、田淵を西武ライオンズに放出する。ライオンズは地元の福岡から、西武ライオンズになって所沢へ移転した。生まれた時から当たり前のように身近にプロ野球があった環境が、終わってしまった。ライオンズがあるときは、他球団のスター選手が見たくて、小倉球場に連れて行ってもらったが、無くなってしまうと、とても寂しいものである。しかしこれが原因で数年後に、初めて阪神の公式戦を平和台球場で見ることになるとは思わなかった。江夏、田淵と生え抜きのスター選手を、情け容赦なくトレードで放出する、阪神タイガースの球団のイメージは最悪になった。なんかスターウォーズみたいだが、掛布が最後のスター、希望の光になった。


1978年阪神7月30日巨人戦スタメン


1番セカンド   中村
2番ショート   榊原
3番サード    掛布
4番キャッチャー 田淵
5番ライト    ラインバック
6番ファースト  藤田
7番レフト    植松
8番センター   島野
9番ピッチャー  長谷川


ベストナイン
三塁手 掛布 3年連続3度目


ダイアモンドグラブ
三塁手 掛布 初

3番掛布 4番田淵     1977年

 小学校を卒業した私はkやOと一緒に、中学校の野球部に入部した。いくら小学校の時市内大会で準優勝したといっても、3年生の先輩はすごく大きくて、スピードもパワーもありレベルがちがうと思った。1年生はユニフォームも着ることができず、体操服で球拾いをするだけだった。3年生の先輩達は実は強いチームだった。市内大会の準決勝で惜敗したが、試合の後スタンドで着替える先輩たちの所に、数名の高校のスカウトが来ていた。最近力をつけ、2年後に甲子園に初出場する、Y大付属のスカウトの人も来ていた。3年生が引退しても。2年生だけがレギュラーだった。私が1塁の控え、Kが三塁の控えになるのは秋以降で、それまではいつまでたっても球拾いだった。


 私達とKやOが球拾いをしていた夏、阪神は田淵が怪我をして戦列を離れ、掛布とラインバックが頑張っていたが、徐々に順位を下げ最終的には4位に終わる。掛布は田淵が欠場する少し前から3番に定着した。この年の田淵の成績は打率261本塁打23本、102試合の出場に終わり、本塁打は久しぶりに30本を割り込む。掛布は打率331(リーグ5位)本塁打23本。ラインバックが打率325本塁打14本。田淵の欠場と不調はやはり痛かったが江夏以降20勝投手がいないのが、寂しくもありチームが上位に行けない理由のように見えた。江本が11勝14敗防御率3.70が勝ち頭だ。この当時まだ最多勝は20勝以上が普通だった。江夏がいなくなった阪神の投手陣には、エースと呼べる投手はいなかった。阪神の生え抜きの投手が最多勝を取るのは、実に2003年の井川まで待たなければならない。優勝できなわけだ。


 掛布は順調に阪神の中軸を担う選手へと成長していった。田淵は今シーズン怪我の影響で調子が悪かったが、来年はやってくれるだろう。もしかしたら、往年の王長嶋に、掛布田淵はなるかもしれない。打線は大丈夫だ、あとは投手陣、山本や古沢が頑張れば優勝戦線に絡むだろうと思っていた。巨人は2年連続優勝したが、日本シリーズは2年連続で阪急に敗れている。巨人は巨人らしくないし、広島や中日も今一つだ。阪神も優勝できる可能性はあると感じていた。まさかあのチームが、阪神より先に優勝するとは思いもよらなかった。


 そして阪神ファンなら。誰でも知っているあの選手が私の通う中学校を私と入れ替わりに卒業し、K工業の野球部に入部したのがこの年である。


1977年6月5日対巨人スタメン


1番ショート  藤田
2番ライト   ラインバック
3番サード   掛布
4番キャッチャー田淵
5番ファースト ブリーデン
6番レフト   東田
7番センター  池辺
8番セカンド  榊原
9番ピッチャー 古沢


ベストナイン 三塁手 掛布 2年連続2度目