俺の阪神タイガース物語

子供も頃からの阪神の記憶、名場面との出会いをつづります。

3番掛布 4番田淵     1977年

 小学校を卒業した私はkやOと一緒に、中学校の野球部に入部した。いくら小学校の時市内大会で準優勝したといっても、3年生の先輩はすごく大きくて、スピードもパワーもありレベルがちがうと思った。1年生はユニフォームも着ることができず、体操服で球拾いをするだけだった。3年生の先輩達は実は強いチームだった。市内大会の準決勝で惜敗したが、試合の後スタンドで着替える先輩たちの所に、数名の高校のスカウトが来ていた。最近力をつけ、2年後に甲子園に初出場する、Y大付属のスカウトの人も来ていた。3年生が引退しても。2年生だけがレギュラーだった。私が1塁の控え、Kが三塁の控えになるのは秋以降で、それまではいつまでたっても球拾いだった。


 私達とKやOが球拾いをしていた夏、阪神は田淵が怪我をして戦列を離れ、掛布とラインバックが頑張っていたが、徐々に順位を下げ最終的には4位に終わる。掛布は田淵が欠場する少し前から3番に定着した。この年の田淵の成績は打率261本塁打23本、102試合の出場に終わり、本塁打は久しぶりに30本を割り込む。掛布は打率331(リーグ5位)本塁打23本。ラインバックが打率325本塁打14本。田淵の欠場と不調はやはり痛かったが江夏以降20勝投手がいないのが、寂しくもありチームが上位に行けない理由のように見えた。江本が11勝14敗防御率3.70が勝ち頭だ。この当時まだ最多勝は20勝以上が普通だった。江夏がいなくなった阪神の投手陣には、エースと呼べる投手はいなかった。阪神の生え抜きの投手が最多勝を取るのは、実に2003年の井川まで待たなければならない。優勝できなわけだ。


 掛布は順調に阪神の中軸を担う選手へと成長していった。田淵は今シーズン怪我の影響で調子が悪かったが、来年はやってくれるだろう。もしかしたら、往年の王長嶋に、掛布田淵はなるかもしれない。打線は大丈夫だ、あとは投手陣、山本や古沢が頑張れば優勝戦線に絡むだろうと思っていた。巨人は2年連続優勝したが、日本シリーズは2年連続で阪急に敗れている。巨人は巨人らしくないし、広島や中日も今一つだ。阪神も優勝できる可能性はあると感じていた。まさかあのチームが、阪神より先に優勝するとは思いもよらなかった。


 そして阪神ファンなら。誰でも知っているあの選手が私の通う中学校を私と入れ替わりに卒業し、K工業の野球部に入部したのがこの年である。


1977年6月5日対巨人スタメン


1番ショート  藤田
2番ライト   ラインバック
3番サード   掛布
4番キャッチャー田淵
5番ファースト ブリーデン
6番レフト   東田
7番センター  池辺
8番セカンド  榊原
9番ピッチャー 古沢


ベストナイン 三塁手 掛布 2年連続2度目