俺の阪神タイガース物語

子供も頃からの阪神の記憶、名場面との出会いをつづります。

プロ野球との出会い 1972年

「プロ野球」なるものを始めて認識したのはいつだろう?


 記憶を探ってみると。。。。。。。
1972年TVで見た巨人ー中日戦。なぜだかはっきり覚えているのは、中日の投手星野さんではなく「エース稲葉」。ウイッキで調べてみるとこの年稲葉投手の成績は20勝11負 防御率2.76 中日ではこの年のみ活躍し残りの4年間1桁しか勝てず阪急に移籍。その後4回2桁勝利をしている。それ以前にもTV[では見てはいるのだろうが、記憶に残っているのはこれが一番古いと思う。


 初めてのプロ野球観戦は1972年の春、父母親戚のお姉さんと行った小倉球場でのオープン戦西鉄ー巨人戦をバックネット裏で見た。投手ライオンズのエース東尾が打者現役晩年の長嶋にインコースの当たりそうな球を投げると長嶋は後ろに倒れて避ける、立ち上がって東尾に怒った顔を向けると次の球をレフトスタンドにライナーのホームランする。小倉球場は大歓声。初観戦にして凄いものを見たなと今になって思うが不思議なことに、だからと言って長嶋や巨人のファンにはならなかった。


 公式戦はやはり1972年の夏7月30日、親戚の叔父さんとお兄さんと行った小倉球場の西鉄‐南海戦。なぜはっきり日にちまで特定できるかといえば、最近ネットで調べたから。当時流行っていた「おばけのQ太郎」に出てくるラーメン好きの小池さんが南海のスタメンにいると親戚のお兄さんが笑っていたのを覚えていてネットで1971年から1972年の南海スタメンを調べると小池選手がスタメンで出場しているのは小倉球場ではその日のみなので1972年7月30日と確定。また叔父さんが「前の試合(その日のダブルヘッターの一試合目の事)なら加藤が投げたし、平和台の一昨日の試合は東尾が投げとったのにの~」と言っていたのを覚えている。調べてみるとその通りだった。便利な世の中になったなと思う。覚えている選手は小池の他南海では4番キャッチャー野村や門田、西鉄では基、東田、太田、竹之内、菊川等々であるが子供らしく飽きてしまい後半は試合を見ずに球場の隅々探索して遊んだり球場に入るときに子供向けのサービスでもらったお菓子の詰め合わせ(透明のビニール袋に入っていてマーブルチョコレートや駄菓子屋で売っていた5円ガム等の他なぜかマルタイ屋台ラーメンが入っていた)を食べつくして球場内で売っているうどんを食べたりして試合をほとんど見ていなかった。
 
 当時の小倉球場は観客は少ないが熱気はあった。日本有数の工場地帯であった福岡県北九州市にあったので観客には作業服を着た叔父さんが多かった記憶がある。これは後の太平洋クラブライオンズ時代の観戦記憶だが作業服のズボンにランニングを着てタオルを鉢巻きにした叔父さんが一升瓶を持って湯のみ茶碗で酒を飲みながら「トントントンビがくるりくるりと輪を描いた」と大声で言うと周りの大人が笑っていたのを覚えている。当時は意味が分からなかったがマウンド上の東尾を野次っていたんだと大人になってトンビ=東尾だと分かった。対戦相手の阪急山田は日本シリーズで巨人と対戦したことも知っていたからか、何か球界のスターに見えカッコよかった。今では考えられないプロ野球観戦のスタイルだが当時ではごく普通のことと感じていた。


 北九州に住みTVは巨人戦、生観戦は西鉄~太平洋クラブ~クラウンライター時代のライオンズの小学校時代の私が阪神ファンになったのか、ハッキリとしたことは覚えていないが、想像するに簡単なことである。
 当時のプロ野球には今でも記録と記憶に残るエース投手がいた。巨人堀内、大洋平松、阪急山田、近鉄鈴木、西鉄東尾の名球会メンバーの他にも広島外木場、ヤクルト松岡、ロッテ木樽 成田等今でもプロ野球ファンなら聞いたことのある名投手達だ。しかし別格的な存在が阪神江夏だと小学2年の私は思っていたようだ。1971年のオールスター9連続奪三振はハッキリと覚えていないがその事実は知っていたし、巨人戦で王や長嶋から三振を奪う姿はまさに剛腕。奪三振といえば江夏のイメージだった。
 そして田淵、巨人戦でやたらホームランを打っていた記憶がある。TV観戦で「田淵ホームラン打たんかね~」と父に言った直後のホームランには「凄い田淵本当に打った」と子供らしい感激をした。王が打つ弾丸ライナーのホームランよりも田淵が打つ舞い上がるフライのホームランこそが本当のホームランだとなぜか子供心にそう思っていた。28番と22番子供のころのあこがれの存在がこの2人であったことが阪神ファンになった理由であろう。
 この他にも1番セカンド中村、3番ショート藤田平、6番センター池田(この打順はその後の年と混同しています)サイドスローの20勝投手上田、そして往年のエースで兼任監督でこの年引退する村山(江夏と他の投手が騎馬を作って村山をブルペンであるラッキーゾーンからマウンドまで運んだ甲子園での引退試合をTVで見た)等がいた阪神の1972年の成績は優勝した巨人と3.5ゲーム差の2位。田淵は34本の本塁打を打ち江夏は23勝8敗の成績であった。
 そんな年が1972年で私の記憶によれば初めてプロ野球に接して、関心を持った年であり江夏の最多勝、田淵の本塁打王、藤田の首位打者、そして阪神が優勝するこを夢見る阪神ファンの仲間入りをした年である。5年生になった時に一緒のソフトボールチームに入り中学校の野球部にも一緒に入部することになる幼馴染のKとOも1972年にファンになっていったがOは少し太平洋クラブライオンズにも興味があったようである。後にライオンズの吉岡が首位打者になった時Oが喜んでいたのを覚えている。しかしながら当時学校の友達の中では阪神ファンはこの私を含めた3人のみでその他は巨人ファンであった。翌々年中日が優勝した時は1人中日ファンが誕生したがなぜかその翌年広島が優勝した時には私の周りでは広島ファンの誕生はなかった。


1972年阪神開幕スタメン


1番セカンド  中村
2番ショート  藤田
3番レフト   望月   
4番ファースト 遠井
5番キャッチャー田淵
6番ライト   藤井
7番サード   野田
8番センター  池田
9番ピッチャー 古沢


受賞
江夏 最多奪三振 233個 6年連続
田淵 ベストナイン 初