俺の阪神タイガース物語

子供も頃からの阪神の記憶、名場面との出会いをつづります。

田淵ホームラン王 江夏阪神を去る 1975年

 1975年のプロ野球セリーグは広島の赤ヘル旋風の年となった。


 その年、町内のソフトボールチームに入った5年生の私は外野手の補欠で、監督の息子である同級生のKはサードのレギュラー。この格差に少しいじけて野球が嫌いになりかけていた。この年初めて少学校内のトーナメントで勝ち区の大会に出場したチームは、近所のおばさんやおじさんがみんなで応援してくれていたので、私が5年生なのにレギュラーではない事実は父を不機嫌にし、母を落胆させていた。


 そんな年の阪神は吉田監督が新たに就任し、当時阪神部屋と言われ江夏や田淵の体型を揶揄したマスコミのの言動に反発して、厳しいトレーニングを選手に強いたキャンプが行われた。また前年日本一になったロッテから池辺とアルトマンが加入し、打線の強化を行った。しかし成績は3位、優勝の広島、2位中日、新生長嶋巨人はまさかの最下位に終わる。首位打者山本それまでは広島と言えば衣笠と思っていた私の思い込みを変え、その後王引退のセリーグで掛布とホームラン王を争う長距離打者になり、ミスター赤ヘルと呼ばれる最初の年となった。巨人の後は阪神の時代になると思い込んでいた当時、広島の優勝はこの年限りのことで、また阪神と巨人が優勝争いをする時代が来ると思っていた。だって田淵はホームラン王を獲得したし、打率も303で山本、中日井上に次ぐ3位。藤田は290で9位の成績、広島から移籍してきた安仁屋は防御率1位、江夏も少し回復気味で12勝12敗ながら防御率はセリーグベストテンに入った。


 日本シリーズで広島は阪急に一勝もできずに負ける。やはりセリーグは阪神が優勝し日本一になるのべきなのだと、一度も日本一になったことのない事実を把握せず、勝手に思い込んでいた小学5年の私には江夏と江本のトレードは衝撃の出来事であった。田淵がホームラン王となり少し江夏への期待度が田淵へ移ったとはいえ、ヒーローは江夏である。
たまたま2年調子が悪かっただけで、来年こそは20勝くらいに考えていた。何も知らず吉田監督を恨んだものだが、その年の初めから球団は江夏をトレードに出す意向であったが吉田監督が球団にもう一年江夏放出を待つように球団首脳を説得した話しを後に知った。
しかし当時のマスコミは江夏と吉田監督の不仲が原因と書き立て、江夏自身もそれを否定しちなかったように思う。


 
 今になって思えば南海で野村監督と出会い、リリーフエースになることを決意し
広島、日本ハム、西武へ優勝請負人として移籍していった江夏の姿はやはり別格のストッパーであったし、今では「延長11回ノーヒットノーランを自らのサヨナラ本塁打で決める」という私の中でのプロ野球史上最高の快挙よりも、広島時代の近鉄との日本シリーズでの「江夏の21級」のほうが世間では有名であることから、江夏は阪神を移籍して本当に良かったと思っている。私の子供時代ののヒーロー最後までカッコいい別格の凄みのある球界一の左腕であった。
「オールスター9人連続奪三振」「奪三振日本記録更新」「延長11回ノーヒットノーランを自からサヨナラ本塁打」「江夏の21球」「206勝 193セーブ」全て伝説と呼ぶのに相応しい快挙である。


 この年一軍で100試合以上に出場し、11本のホームランを打った掛布の姿から来年の飛躍を予想することすら出来なかった。


1975年阪神開幕スタメン


1番セカンド   中村
2番ライト    テーラー
3番ショート   藤田
4番キャッチ―  田淵
5番ファースト  アルトマン
6番センター   池辺
7番レフト    望月
8番サード    佐野
9番ピッチャ―  江夏


表彰
本塁打王   田淵 43本
最優秀防御率 安仁屋 1.91
カムバック賞 安仁屋


ベストナイン
捕手 田淵 4年連続4回目


ダイアモンドグラブ
遊撃 藤田 2年ぶり2度目