俺の阪神タイガース物語

子供も頃からの阪神の記憶、名場面との出会いをつづります。

遂に最下位….田淵放出  1978年

 中学校2年になった私は、一塁の控えであったが公式戦のベンチには入れてもらえなかった。(練習試合には代打で出してもらったが、ヒットは打てなかった。)Kは3塁の控えとしてベンチ入りしたが、試合には出場できなかった。その夏3年生は、去年と同じく市内大会準決勝で惜敗した。4番キャッチャーのK先輩は、2打席連続のドデカいホームランをかっ飛ばしたが、1点届かず負けた。試合の後そのK先輩を目当てに、数名の高校のスカウトが来ていた。K先輩はY大付属に進んだ。


 新チームになりなんと僕は、4番で一塁手。Kが3番で3塁、Oはまだレギュラーではなかった。(3年になり私が捕手になり、Oが一塁のレギュラーになる。)当時私は、すでに身長180cmを超えていたので、体格だけで選ばれた4番だった。しかし、2年生の夏、三年生が引退した後監督は、僕たちの代で九州大会を狙うと鼻息が荒かった。確かに三塁のKはもとより、遊撃で1番のB、ピッチャーで5番のOは小学校から有名選手で、BやOは隣の小学校の主力選手で、小学校の時から顔見知りだった。


 その年の阪神は最下位だった。開幕からいいところなく、最下位街道まっしぐら。監督は吉田監督から後藤監督に代わっていた。田淵は打率288、本塁打38.掛布は打率318、本塁打32、3番4番は良い成績だったが、チーム打率はリーグ5位の254。チーム防御率は最下位で、セリーグ2位の防御率3.10の江本は11勝13敗11セーブ、他の投手は防御率10傑圏外あった。


 阪神は江夏放出以来投手難で、1976年以降10勝投手は1976年江本15勝9敗、古沢10勝8敗1S 1977年江本11勝14敗1S そして1978年は上記の江本である。確かに江夏とトレードで獲得した江本は、当時のエースかもしれない。しかし阪神のエースといえば小山、村山、バッキ―、江夏、古くは若林と最多勝や、最優秀防御率、奪三振等のタイトルをとる、リーグを代表するエースだった。エースと呼ばれる投手が負け越しているのは、まさに投手難のチームを表していると思う。これはある意味1990年代の、暗黒時代まで延々と続く。野球はやはり投手である。


 この年優勝したヤクルトについては、当時は日本シリーズしか見ていないが、大杉のあのファールに抗議する上田監督を見ていると、3年間憎らしいほど強かった阪急帝国の終焉と新生ヤクルトの溌剌とした感じが対照的だった。その後に呼んだ、作者名は忘れたが、この時の広岡監督を題材とした「監督」という小説は、めちゃめちゃ面白かった。実際とは違うのだろうが、当時のヤクルトの強さがわかったような気がした。


 このオフ阪神は何を考えたのか、田淵を西武ライオンズに放出する。ライオンズは地元の福岡から、西武ライオンズになって所沢へ移転した。生まれた時から当たり前のように身近にプロ野球があった環境が、終わってしまった。ライオンズがあるときは、他球団のスター選手が見たくて、小倉球場に連れて行ってもらったが、無くなってしまうと、とても寂しいものである。しかしこれが原因で数年後に、初めて阪神の公式戦を平和台球場で見ることになるとは思わなかった。江夏、田淵と生え抜きのスター選手を、情け容赦なくトレードで放出する、阪神タイガースの球団のイメージは最悪になった。なんかスターウォーズみたいだが、掛布が最後のスター、希望の光になった。


1978年阪神7月30日巨人戦スタメン


1番セカンド   中村
2番ショート   榊原
3番サード    掛布
4番キャッチャー 田淵
5番ライト    ラインバック
6番ファースト  藤田
7番レフト    植松
8番センター   島野
9番ピッチャー  長谷川


ベストナイン
三塁手 掛布 3年連続3度目


ダイアモンドグラブ
三塁手 掛布 初