俺の阪神タイガース物語

子供も頃からの阪神の記憶、名場面との出会いをつづります。

俺の阪神タイガース物語の新着ブログ記事

  • 掛布 スタントン ラインバック三連発 1979年

     1979年、私は中学校3年生。軟式野球部で捕手をしていた。打順は初め4番だったが6番になった。春の大会も夏の大会も区内で敗戦し県大会はおろか市内大会にも進むことが出来なかった。春は投手のOが延長の1死満塁で、なぜかセカンドのカバーに入った中堅のTに牽制暴投でサヨナラ負け。私は「投げるな」と叫んだ... 続きをみる

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  • 遂に最下位….田淵放出  1978年

     中学校2年になった私は、一塁の控えであったが公式戦のベンチには入れてもらえなかった。(練習試合には代打で出してもらったが、ヒットは打てなかった。)Kは3塁の控えとしてベンチ入りしたが、試合には出場できなかった。その夏3年生は、去年と同じく市内大会準決勝で惜敗した。4番キャッチャーのK先輩は、2打... 続きをみる

  • 3番掛布 4番田淵     1977年

     小学校を卒業した私はkやOと一緒に、中学校の野球部に入部した。いくら小学校の時市内大会で準優勝したといっても、3年生の先輩はすごく大きくて、スピードもパワーもありレベルがちがうと思った。1年生はユニフォームも着ることができず、体操服で球拾いをするだけだった。3年生の先輩達は実は強いチームだった。... 続きをみる

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  • 掛布3割を打つ   1976年

     1976年1月4日より町内ソフトボールチームの練習は始まった。外野の補欠からキャッチャーになった私は、これからの10か月間、練習ばかりの日々を送る。学校から帰るとすぐにジャージに着替える、そして小学校の校庭に戻るとそこから日が暮れるまで練習が続く、春と秋は6時位には日が落ちるが、夏は7時半くらい... 続きをみる

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  • 田淵ホームラン王 江夏阪神を去る 1975年

     1975年のプロ野球セリーグは広島の赤ヘル旋風の年となった。  その年、町内のソフトボールチームに入った5年生の私は外野手の補欠で、監督の息子である同級生のKはサードのレギュラー。この格差に少しいじけて野球が嫌いになりかけていた。この年初めて少学校内のトーナメントで勝ち区の大会に出場したチームは... 続きをみる

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  • 阪神雪辱ならず 巨人V10ならず 1974年

     前年の雪辱を期すであろうと思われた、1974年阪神はいいところなく4位に沈む。6月と7月首位に立って「やっぱり今年は阪神だ」とKやOたちと盛り上がっていたが巨人のV10を止めたのは阪神ではなく、昨年いいところで負けた中日だった。2位は巨人、3位ヤクルトにも抜かれる始末。頼みのエース江夏は12勝1... 続きをみる

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  • 阪神最終戦に散る 1973年

     1973年は阪神ファンの私にとって1992年、2008年、2010年同じく落胆の年になった。  しかしこの秋の悲劇よりも、夏休み最後の日に知った凄い出来事のほうが、この年の鮮明な記憶として蘇ってくる。オールド阪神ファンなら誰でも知っている1973年8月30日対中日戦甲子園での出来事である。  当... 続きをみる

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  • プロ野球との出会い 1972年

    「プロ野球」なるものを始めて認識したのはいつだろう?  記憶を探ってみると。。。。。。。 1972年TVで見た巨人ー中日戦。なぜだかはっきり覚えているのは、中日の投手星野さんではなく「エース稲葉」。ウイッキで調べてみるとこの年稲葉投手の成績は20勝11負 防御率2.76 中日ではこの年のみ活躍し残... 続きをみる

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