俺の阪神タイガース物語

子供も頃からの阪神の記憶、名場面との出会いをつづります。

掛布3割を打つ   1976年

 1976年1月4日より町内ソフトボールチームの練習は始まった。外野の補欠からキャッチャーになった私は、これからの10か月間、練習ばかりの日々を送る。学校から帰るとすぐにジャージに着替える、そして小学校の校庭に戻るとそこから日が暮れるまで練習が続く、春と秋は6時位には日が落ちるが、夏は7時半くらいにやっと日が落ちていたような気がする。家に帰るのが8時で、風呂に入って夕食は8時20分位、腹が減っている、当時は餃子なら50個以上は食べていた。焼鳥だとやはり50本以上。(父が私と友人のKとを焼き鳥屋に連れ行くと、二人で130本食べたことがある)土曜日は昼から、日曜日は朝8時か9時から日没の7時半まで練習した。そして完全に休みだった日は正月3日迄とお盆2日間。
 当時何が苦しいかといえば、水分を取らせてもらえないこと。一日練習して昼食のお弁当の時、水筒のキャップに一杯だけ許された。よく脱水症で倒れなかったと思うだろうが、実はトイレに行ってトイレの手洗いの水をしこたま飲んでいたから倒れなかったので本当なら死人が出ていてもおかしくないと今なら思う。


 おかげでチームは校内は楽勝で勝ち抜け、区の大会で優勝する。準決勝でホームランを打ったのを今でも覚えている。各区で優勝、準優勝のチームによる市の大会は大手新聞社主催で小倉球場で開催された。入場行進もありさながらミニ甲子園である。決勝に進んだが昨年も優勝しているチームに逆転負けをし準優勝に終わる。決勝戦はナイターで決勝の前には久々の区からの決勝進出らしく、区の役員さん達(全く知らない初めて見る人達)が激励にベンチへ来た。小学生のの私達チームは近隣の学校で有名になった。
 


 その年、掛布が阪神のレギュラーになる。6番サード掛布から3番サード掛布になるのに時間はかからなかった気がする。練習で疲れて半分眠りながら巨人戦のTV中継を見た
今までの阪神の選手はなぜ打てなかったのかと思うほどの高打率である。(去年は田淵の303がチーム1位でリーグ3位)打率325でセリーグ第5位、本塁打も27本打った。掛布を見ていると、練習たくさんしてますオーラが出ていた。僕たちがこんなに練習しているがプロ野球選手はもっと凄い、想像もつかない練習をしているんだろうと思った。江夏や田淵のような凄みではなく、一生懸命やってることが前面に出る当時の掛布は新しい型のヒーローのような感じがした。


 ラインバックやブリーデンがいたこの年、打線が強くて投手が弱いイメージであったが、実際は逆で防御率がリーグ1位3.54 打率がリ―グ5位の258とは意外だった。当時の記録であるチーム本塁打193本は空砲に終わったのか、その年阪神は巨人から2ゲーム差の2位。エースは江夏から江本に代わっていた。また巨人1位阪神2位2年間でセ界は元へ戻る。巨人は長嶋がいなくても、王だけでも(張本が加入したが)十分強かった。掛布のようなニュースターが出てきても2位だ。阪神が強ければ強いほど、巨人の強さが引き立つだって阪神は、巨人が優勝するときの2位の役なのだから。中日や広島は自分たちのストーリーで自分たちの優勝を勝ち取った。阪神は巨人が書いたストーリーのライバル役のように見えた。プロ野球を見だした1972年から5年「巨人優勝」「阪神2位」がセリーグの基本で役者が変わっても、この構図は変わらないもののように見えた。


 これから掛布は増々打撃に磨きをかけ、本塁打王、打点王となり阪神、球界を代表する長距離打者となる。しかし阪神は巨人の引き立て役は演じるが、それはチームとチームの戦いではなく、個人VS個人の戦いとなりチームは低迷することになるとはこの時点では思わなかった。


 この年田淵は39本しか本塁打を打たなかった、江夏は南海で6勝12敗9Sだった。


1976年阪神4月13日巨人戦スタメン


1番セカンド  中村
2番ショート  藤田
3番ライト   ラインバック
4番キャッチャー田淵
5番ファースト ブリーデン
6番レフト   東田
7番センター  池辺
8番サード   掛布
9番ピッチャー 古沢


ベストナイン
田淵  捕手  5年連続5度目
掛布  三塁手 初


ダイアモンドグラブ
池辺  外野手 4年ぶり2度目

田淵ホームラン王 江夏阪神を去る 1975年

 1975年のプロ野球セリーグは広島の赤ヘル旋風の年となった。


 その年、町内のソフトボールチームに入った5年生の私は外野手の補欠で、監督の息子である同級生のKはサードのレギュラー。この格差に少しいじけて野球が嫌いになりかけていた。この年初めて少学校内のトーナメントで勝ち区の大会に出場したチームは、近所のおばさんやおじさんがみんなで応援してくれていたので、私が5年生なのにレギュラーではない事実は父を不機嫌にし、母を落胆させていた。


 そんな年の阪神は吉田監督が新たに就任し、当時阪神部屋と言われ江夏や田淵の体型を揶揄したマスコミのの言動に反発して、厳しいトレーニングを選手に強いたキャンプが行われた。また前年日本一になったロッテから池辺とアルトマンが加入し、打線の強化を行った。しかし成績は3位、優勝の広島、2位中日、新生長嶋巨人はまさかの最下位に終わる。首位打者山本それまでは広島と言えば衣笠と思っていた私の思い込みを変え、その後王引退のセリーグで掛布とホームラン王を争う長距離打者になり、ミスター赤ヘルと呼ばれる最初の年となった。巨人の後は阪神の時代になると思い込んでいた当時、広島の優勝はこの年限りのことで、また阪神と巨人が優勝争いをする時代が来ると思っていた。だって田淵はホームラン王を獲得したし、打率も303で山本、中日井上に次ぐ3位。藤田は290で9位の成績、広島から移籍してきた安仁屋は防御率1位、江夏も少し回復気味で12勝12敗ながら防御率はセリーグベストテンに入った。


 日本シリーズで広島は阪急に一勝もできずに負ける。やはりセリーグは阪神が優勝し日本一になるのべきなのだと、一度も日本一になったことのない事実を把握せず、勝手に思い込んでいた小学5年の私には江夏と江本のトレードは衝撃の出来事であった。田淵がホームラン王となり少し江夏への期待度が田淵へ移ったとはいえ、ヒーローは江夏である。
たまたま2年調子が悪かっただけで、来年こそは20勝くらいに考えていた。何も知らず吉田監督を恨んだものだが、その年の初めから球団は江夏をトレードに出す意向であったが吉田監督が球団にもう一年江夏放出を待つように球団首脳を説得した話しを後に知った。
しかし当時のマスコミは江夏と吉田監督の不仲が原因と書き立て、江夏自身もそれを否定しちなかったように思う。


 
 今になって思えば南海で野村監督と出会い、リリーフエースになることを決意し
広島、日本ハム、西武へ優勝請負人として移籍していった江夏の姿はやはり別格のストッパーであったし、今では「延長11回ノーヒットノーランを自らのサヨナラ本塁打で決める」という私の中でのプロ野球史上最高の快挙よりも、広島時代の近鉄との日本シリーズでの「江夏の21級」のほうが世間では有名であることから、江夏は阪神を移籍して本当に良かったと思っている。私の子供時代ののヒーロー最後までカッコいい別格の凄みのある球界一の左腕であった。
「オールスター9人連続奪三振」「奪三振日本記録更新」「延長11回ノーヒットノーランを自からサヨナラ本塁打」「江夏の21球」「206勝 193セーブ」全て伝説と呼ぶのに相応しい快挙である。


 この年一軍で100試合以上に出場し、11本のホームランを打った掛布の姿から来年の飛躍を予想することすら出来なかった。


1975年阪神開幕スタメン


1番セカンド   中村
2番ライト    テーラー
3番ショート   藤田
4番キャッチ―  田淵
5番ファースト  アルトマン
6番センター   池辺
7番レフト    望月
8番サード    佐野
9番ピッチャ―  江夏


表彰
本塁打王   田淵 43本
最優秀防御率 安仁屋 1.91
カムバック賞 安仁屋


ベストナイン
捕手 田淵 4年連続4回目


ダイアモンドグラブ
遊撃 藤田 2年ぶり2度目

阪神雪辱ならず 巨人V10ならず 1974年

 前年の雪辱を期すであろうと思われた、1974年阪神はいいところなく4位に沈む。6月と7月首位に立って「やっぱり今年は阪神だ」とKやOたちと盛り上がっていたが巨人のV10を止めたのは阪神ではなく、昨年いいところで負けた中日だった。2位は巨人、3位ヤクルトにも抜かれる始末。頼みのエース江夏は12勝14敗と負け越したが、4番田淵がもう少しで本塁打王となる45本の本塁打を打つ、しかし王が貫録の49本塁打で三冠王、昨年友達のKとOと話した阪神黄金時代は来ることなく、巨人時代のみが終わった。


 中日が優勝した秋、学校から家に戻ると母が「長嶋の引退式やってるよ」と言う。テレビを見ると例の「巨人軍は永久に不滅です」の言葉と涙して外野スタンドのファンに挨拶する長嶋の姿があった。今では外野スタンドまで行ってファンに手を振りながら歩くのは定番の引退式の形であるが、当時としては異例の行動であったように思う。引退式のセレモニーまでもスーパースター長嶋がとった行動が今の原型になっている事実は阪神ファンの私でも認めるところである。長嶋さんの阪神にさえ愛を感じる言動は、亡くなった星野さんに通じる(いや星野さんが長嶋さんに通じているのか)野球界全体を考え今後を発信できる貴重な人であると尊敬いている。しかし当時小学4年の長嶋の全盛期を知らない私にとって、長嶋の引退は特に何も感情が沸き立つこともなかった出来事であったが、西鉄黄金時代を知る西鉄ファンの母にとって、日本シリーズで稲尾と対戦したゴールデンルーキー長嶋の引退は、一つの時代が終わる感慨深いものであったようだ。


 その夕食時、豊田、中西、高倉、稲尾そして近隣で福岡県生れの仰木の話を聞かされた。そんなことは祖父に買ってもらった「鉄腕物語」稲尾の本を読んで知ってるし、今は金田ロッテと稲尾太平洋の遺恨試合の時代だぜと思ったが、母が野球の話をするのは珍しいので黙って聞いていた。


 「1番高木が塁に出て~」例の燃えよドラゴンズが福岡の小学校の教室で休み時間に歌われていた。それほど巨人以外のチームがセリーグ優勝するということは、ちょっとした事件であったように思う。クラスに中日ファンが一人誕生した。


 朝の祖父との新聞争奪戦は相変わらずで、田淵のホームラン数の確認には余念が無かった。来年こそは田淵が本塁打王になり、新長嶋巨人を倒して優勝するのは阪神しかない、江夏も復活するし来年こそは間違いないと思っていた。


 その年阪神の帽子を買ってもらった。当時学校で流行っていたので帽子の横に選手の背番号をスポーツ用品店で貼ってもらう。迷った挙句22ではなく28を貼ってもらった。確か、友達のOとKが22と6にした様な気がする。その帽子を被って三角ベースで遊んだ。しかしその翌年の年末には被ることをやめた。それくらい子供ながら残念で仕方ない江夏のトレードだったような気がする。今現在私の中での歴代阪神選手の№1は江夏である。今ネットで江夏のノーヒットノーランとサヨナラ本塁打の試合を見ることが出来る。一番驚いたのは、プレーではなく観客の少なさ。当時巨人戦でしか見たことのなかった甲子園は閑散としていた。阪神が巨人戦の後他球団によく負ける理由としてあげる選手が多かったことを実際に目の当たりして、「もっと頑張れあの頃の地元の阪神ファン」と思ったが今は大阪に住んでいるがチケットが取れない状況である。


 ちなみに私の歴代阪神在籍選手で思い入れが強いのは
1江夏 2田淵 3掛布 4真弓 5今岡 6井川 7新庄 8鳥谷 9池田親 
江夏田淵の黄金バッテリーは最初に阪神ファンになったきっかけであり絶対的な私のヒーローであった。その後を継いだ1980年代の阪神の誇り掛布。地元福岡出身で生え抜きであれば掛布よりも好きだったかもしれない真弓。暗黒時代東京ドームでの2打席連続ホームランを見てこの選手が3番を打つようになり首位打者のタイトルでも取れば阪神は強くなれると思わせてくれた今岡。その少しあと暗黒時代の最後に出てきてエースとして成長していく段階を甲子園で見ることが出来た井川。あの暗黒時代真っただ中唯一の阪神希望の星であったし同じ福岡出身の新庄。寡黙に怪我をしていても毎日試合に出て金本、今岡の後の時代を支えている鳥谷。先発ピッチャー不在の時代に若きエースとして日本シリーズで完封した池田親の順番かなと思う。


 巨人のV9が終わり長嶋引退で巨人は一つの時代を終えたが、阪神もまた黄金バッテリー江夏田淵の時代が終わろうとしていたのが、ピークの1973年からすぐ翌年の1974年だったことが阪神のその後の低迷の大きな理由であると思う。1974年江夏26歳、田淵28歳である。2人が一緒に1985年の優勝の直前まで阪神を背負って欲しかった。う~んしかし田淵がトレードされず真弓が阪神に来ていなかったら1985年の優勝はない?それとももっと以前に優勝していた?悩むところである。


 1973年の優勝を逃した時の江夏の回想「優勝はしてくれるな給料を上げなくてはならないから。巨人と優勝を争って2位に終わるのが1番いい」と球団首脳が言ったとか。真偽は知らないがそれがもとで江夏のやる気が薄れトレードされたのならとてもやるせない気持ちになる。


1974年開幕スタメン


1番ライト   テーラー
2番レフト   望月
3番ショート  藤田
4番キャッチャー田淵
5番ファースト 遠井
6番センター  池田
7番サード   後藤
8番セカンド  野田
9番ピッチャー 江夏


ベストナイン
田淵 捕手  3年連続3度目
藤田 遊撃手 2年連続6度目


ダイアモンドグラブ
田淵 捕手  2年連続2度目