俺の阪神タイガース物語

子供も頃からの阪神の記憶、名場面との出会いをつづります。

阪神最終戦に散る 1973年

 1973年は阪神ファンの私にとって1992年、2008年、2010年同じく落胆の年になった。


 しかしこの秋の悲劇よりも、夏休み最後の日に知った凄い出来事のほうが、この年の鮮明な記憶として蘇ってくる。オールド阪神ファンなら誰でも知っている1973年8月30日対中日戦甲子園での出来事である。


 当時阪神の情報は夜7時からのTVか試合開始からのラジオでの巨人戦と家で取っている毎日新聞のスポーツ欄だけが頼りであった。巨人戦は必ずTV観戦し9時にTVが終了するとラジオで聞いていたものだ。そして毎朝祖父との新聞争奪戦(祖父に先に取られると夕方学校から帰ってくるまでスポーツ欄を確認できない)を制して、朝の6時ごろ毎日新聞のスポーツ欄で昨夜の阪神の結果を確認した。順位表、打撃成績、投手成績等確認したが肝心の記事は巨人と西鉄ばかりで殆どないのが通常で巨人戦の翌朝だけ取り上げられ選手のコメント等が確認できた。
 しかしその日は見出しが江夏である。昨夜は中日戦だったのにである。「野球は1人でもできる」江夏延長11回ノーヒットノーランを決める自らの本塁打。「すげ~」新聞を玄関で広げながら小学3年の私は江夏が達成した快挙がいかに凄いことか、紙面に割かれる阪神情報の多さで感じ取っていた。田淵にホームランが出なかったのが少しだけ残念だった。これで江夏ノーヒットノーラン田淵サヨナラ本塁打なら本当の黄金バッテリーなのにと思ったが、江夏のカッコよさは私の中で最高点に達し江夏>田淵>藤田の構図ができた。相手投手の中日松本は翌年20勝して中日の優勝に貢献することになる「阪神キラー」の左投手である。阪神は中日の左投手にこの時から苦しめられていたのだ。
 8月終了の時点で巨人と0.5ゲーム差の2位阪神は優勝の現実味が本格化した。江夏と田淵そして藤田までいるのに巨人に負けるわけはないと本気で思っていた。


 最終戦の悲劇を迎える前に後楽園球場対巨人戦で凄いゲームがある。10月11日10対10の引き分けである。7対0から7対9と逆転された阪神が藤田のホームラン等で10対9と再逆し最後は10対10の引き分けに終わった。学校から戻って見た時点では7対9だったのでそこから10対9に逆転。「やっぱ阪神強え~カッコいい~」と言うと母が「初めは阪神が7対0で勝っとたんよ。それを巨人に逆転されたんよ」と言ったが、前日の巨人戦で田淵が逆転満塁ホームランを打って勝った情報と合わせてその時は阪神が優勝するものだと思っていた。(翌日の新聞で10対10の引き分けに終わったことを知る)時代は阪神から巨人へ王から田淵へ堀内から江夏へ、今年が連覇の始まりの年みたいな朧げな妄想が頭の中にあった。プロ野球で一番カッコいい阪神その中で一番カッコいい江夏その次は田淵その次は藤田。夏にできた構図がいよいよ鮮明になり長嶋や王は近々引退する過去の選手であると阪神への熱狂が私の中で8月31日から積み上げられてゆるぎないものとなった。その姿は見ていないが7点のリードをもらいながら勝ち投手になれなかった江夏に対して「なんで???」と少し思ったが阪神優勝は間違いないので良しとした。


 その後が有名な江夏が先発した中日戦。当時は阪神の優勝を邪魔した中日の星野が大嫌いになった。2003年阪神の監督し優勝に導いてくれると夢にも思うことはない状況である。星野さんが生前言っていた「あの時は阪神優勝しろ。ほれ打たんか」と思いながら投げていたなんて九州福岡の小学生は知る由もなし。天国の星野さんあの時は友達と「中日のエースでもない星野なんかに負けてしまった」と落胆し悪口を言ってすみませんでした。


 そして最終戦阪神0-9巨人の大敗しかも甲子園。点差をつけられていく度にカッコいい阪神が屈辱的な敗戦をするのは見てはいけないものを見ている感じがして、最後ファンがグラウンドになだれ込んで巨人ベンチに押し寄せる様子は増々見てはいけないこの世の地獄と感じた。小学校3年である。現実が受け止められないまま「巨人大嫌い」の感情と「江夏と田淵は来年必ずやりかえす」との思いがTV画面を見ながら湧いてきたが「阪神ファンてこんなもんか?」と本場甲子園のファンの行動に違和感を持ったのも事実である。


 翌日阪神ファンのKとOと何とも言えない阪神‐巨人戦の話をする。「打たれた上田が悪い」「打たなかった田淵が悪い」「その前に勝てなかった江夏が悪い」戦犯を探し様々話したが最終「どうせ巨人は今年まで来年からは阪神時代が来る」と三人で納得。阪神ファンの悲哀を感じた最初の年であり、阪神黄金時代という永遠に来ない時代を夢見た最初の年でもあった1973年だった。阪神は巨人と0.5ゲーム差の2位、江夏は24勝を挙げ、田淵は37本の本塁打を打った。


1973年阪神開幕スタメン


1番ショート  藤田
2番セカンド  野田
3番レフト   池田
4番キャッチャ―田淵
5番ファースト 遠井
6番ライト   カークランド
7番サード   後藤 
8番センター  佐藤
9番ピッチャー 江夏


表彰
最多勝 江夏 24勝 5年ぶり2度目


ベストナイン
田淵 捕手     2年連続2回目
藤田 遊撃手    2年ぶり5度目


ダイアモンドグラブ
田淵 捕手     初
藤田 遊撃手    初

プロ野球との出会い 1972年

「プロ野球」なるものを始めて認識したのはいつだろう?


 記憶を探ってみると。。。。。。。
1972年TVで見た巨人ー中日戦。なぜだかはっきり覚えているのは、中日の投手星野さんではなく「エース稲葉」。ウイッキで調べてみるとこの年稲葉投手の成績は20勝11負 防御率2.76 中日ではこの年のみ活躍し残りの4年間1桁しか勝てず阪急に移籍。その後4回2桁勝利をしている。それ以前にもTV[では見てはいるのだろうが、記憶に残っているのはこれが一番古いと思う。


 初めてのプロ野球観戦は1972年の春、父母親戚のお姉さんと行った小倉球場でのオープン戦西鉄ー巨人戦をバックネット裏で見た。投手ライオンズのエース東尾が打者現役晩年の長嶋にインコースの当たりそうな球を投げると長嶋は後ろに倒れて避ける、立ち上がって東尾に怒った顔を向けると次の球をレフトスタンドにライナーのホームランする。小倉球場は大歓声。初観戦にして凄いものを見たなと今になって思うが不思議なことに、だからと言って長嶋や巨人のファンにはならなかった。


 公式戦はやはり1972年の夏7月30日、親戚の叔父さんとお兄さんと行った小倉球場の西鉄‐南海戦。なぜはっきり日にちまで特定できるかといえば、最近ネットで調べたから。当時流行っていた「おばけのQ太郎」に出てくるラーメン好きの小池さんが南海のスタメンにいると親戚のお兄さんが笑っていたのを覚えていてネットで1971年から1972年の南海スタメンを調べると小池選手がスタメンで出場しているのは小倉球場ではその日のみなので1972年7月30日と確定。また叔父さんが「前の試合(その日のダブルヘッターの一試合目の事)なら加藤が投げたし、平和台の一昨日の試合は東尾が投げとったのにの~」と言っていたのを覚えている。調べてみるとその通りだった。便利な世の中になったなと思う。覚えている選手は小池の他南海では4番キャッチャー野村や門田、西鉄では基、東田、太田、竹之内、菊川等々であるが子供らしく飽きてしまい後半は試合を見ずに球場の隅々探索して遊んだり球場に入るときに子供向けのサービスでもらったお菓子の詰め合わせ(透明のビニール袋に入っていてマーブルチョコレートや駄菓子屋で売っていた5円ガム等の他なぜかマルタイ屋台ラーメンが入っていた)を食べつくして球場内で売っているうどんを食べたりして試合をほとんど見ていなかった。
 
 当時の小倉球場は観客は少ないが熱気はあった。日本有数の工場地帯であった福岡県北九州市にあったので観客には作業服を着た叔父さんが多かった記憶がある。これは後の太平洋クラブライオンズ時代の観戦記憶だが作業服のズボンにランニングを着てタオルを鉢巻きにした叔父さんが一升瓶を持って湯のみ茶碗で酒を飲みながら「トントントンビがくるりくるりと輪を描いた」と大声で言うと周りの大人が笑っていたのを覚えている。当時は意味が分からなかったがマウンド上の東尾を野次っていたんだと大人になってトンビ=東尾だと分かった。対戦相手の阪急山田は日本シリーズで巨人と対戦したことも知っていたからか、何か球界のスターに見えカッコよかった。今では考えられないプロ野球観戦のスタイルだが当時ではごく普通のことと感じていた。


 北九州に住みTVは巨人戦、生観戦は西鉄~太平洋クラブ~クラウンライター時代のライオンズの小学校時代の私が阪神ファンになったのか、ハッキリとしたことは覚えていないが、想像するに簡単なことである。
 当時のプロ野球には今でも記録と記憶に残るエース投手がいた。巨人堀内、大洋平松、阪急山田、近鉄鈴木、西鉄東尾の名球会メンバーの他にも広島外木場、ヤクルト松岡、ロッテ木樽 成田等今でもプロ野球ファンなら聞いたことのある名投手達だ。しかし別格的な存在が阪神江夏だと小学2年の私は思っていたようだ。1971年のオールスター9連続奪三振はハッキリと覚えていないがその事実は知っていたし、巨人戦で王や長嶋から三振を奪う姿はまさに剛腕。奪三振といえば江夏のイメージだった。
 そして田淵、巨人戦でやたらホームランを打っていた記憶がある。TV観戦で「田淵ホームラン打たんかね~」と父に言った直後のホームランには「凄い田淵本当に打った」と子供らしい感激をした。王が打つ弾丸ライナーのホームランよりも田淵が打つ舞い上がるフライのホームランこそが本当のホームランだとなぜか子供心にそう思っていた。28番と22番子供のころのあこがれの存在がこの2人であったことが阪神ファンになった理由であろう。
 この他にも1番セカンド中村、3番ショート藤田平、6番センター池田(この打順はその後の年と混同しています)サイドスローの20勝投手上田、そして往年のエースで兼任監督でこの年引退する村山(江夏と他の投手が騎馬を作って村山をブルペンであるラッキーゾーンからマウンドまで運んだ甲子園での引退試合をTVで見た)等がいた阪神の1972年の成績は優勝した巨人と3.5ゲーム差の2位。田淵は34本の本塁打を打ち江夏は23勝8敗の成績であった。
 そんな年が1972年で私の記憶によれば初めてプロ野球に接して、関心を持った年であり江夏の最多勝、田淵の本塁打王、藤田の首位打者、そして阪神が優勝するこを夢見る阪神ファンの仲間入りをした年である。5年生になった時に一緒のソフトボールチームに入り中学校の野球部にも一緒に入部することになる幼馴染のKとOも1972年にファンになっていったがOは少し太平洋クラブライオンズにも興味があったようである。後にライオンズの吉岡が首位打者になった時Oが喜んでいたのを覚えている。しかしながら当時学校の友達の中では阪神ファンはこの私を含めた3人のみでその他は巨人ファンであった。翌々年中日が優勝した時は1人中日ファンが誕生したがなぜかその翌年広島が優勝した時には私の周りでは広島ファンの誕生はなかった。


1972年阪神開幕スタメン


1番セカンド  中村
2番ショート  藤田
3番レフト   望月   
4番ファースト 遠井
5番キャッチャー田淵
6番ライト   藤井
7番サード   野田
8番センター  池田
9番ピッチャー 古沢


受賞
江夏 最多奪三振 233個 6年連続
田淵 ベストナイン 初